「モカ」というと、コーヒーとチョコレートを合わせた飲み物を思い浮かべる人も多いはずです。しかしもともとの「モカ」はイエメン紅海沿岸にある港町の名前で、17〜18世紀初頭を中心に、この港を通じて世界に運ばれたコーヒーの通称でした。日本の商品名に残る「モカハラズ」「モカマタリ」は、この歴史的な通称と産地名を重ねた表記です。この記事では、港の名前がなぜ産地名や飲み物の名前にまで広がったのかを整理し、段々畑が続く産地の位置関係、精製や品種、統一された等級制度が無い実情、そして国内の棚の実測につなげます。エチオピアのイルガチェフェ・シダモ・グジの整理と同じく、産地名の重なりをほどくところから始めます。

イエメンはどういう産地か

まず輪郭を3つ。

  1. アラビカの二次拡散地とされる、古い産地です。アラビカ種が生まれた一次中心はエチオピアと南スーダンの山地林とされ、イエメンはそこから伝わった系統が独自に分化した場所と位置づけられています。歴史的にはモカ港を通じた貿易でヨーロッパにコーヒーが広まった起点の一つでもあります
  2. 段々畑(テラス)での小規模農業です。コーヒー栽培面積は32,984ha(イエメン農業省2018年統計書。UNDP報告書が転載)で、21県中15県で栽培されます。1農家あたりの耕地は平均0.291ha・コーヒーの木394本、生産量は平均114kgと小さく、単収も0.57t/haにとどまります。栽培は乾燥地での天水頼みで、灌漑設備は限られます
  3. 国際コーヒー機関(ICO)の非加盟国で、USDAの年次報告(Coffee Annual)もイエメン向けには出されていません。コーヒー輸出額は総輸出額の約1.38%(2,000万ドル、2020/21会計年度)にとどまり、原油が輸出の85%を占める国です。生産量・輸出量の一次資料が薄く、資料によって数値が食い違うことが少なくありません

産地の地図 — サナア周辺の高地帯

商品名でよく見る産地名は、首都サナアを取り巻く高地に集まっています。

産地名(商品名に出る語) 位置関係 備考
ハラーズ(ハラズ) サナア西方の山脈。古くから知られる段々畑の産地 標高は解説により幅があり、一次資料での裏付けは確認できていない
バニーマタル(マタリ) サナア南西の高地区 「マタリ」は商品名で単独でも使われる通称
ハイマ(ハイマ・ハリジャ) バニーマタル周辺 商品名では地区名まで書かれることがある
イスマイリ(バニーイスマイル) サナア西方 商品名での出現は少ない
サナニ サナア市周辺一帯 サナア市そのものを指す語ではなく、周辺高地一帯の通称
ヤーフィ ラフジ県ヤーファ地区 国内の棚での出現はまれ

この6地区に加え、UNDP報告書はブラア(Bura’a)とダマール(Dhamar)を段々畑の急斜面により特化した産地として挙げ、ほかサナア・アムラン・アッダーレ・ハッジャ・アルアフムウェイト・ラフジ・フダイダ・イブでも栽培されるとしています。ただしブラア・ダマールは日本の商品名にはほとんど出てきません。栽培標高はおおむね1,500〜2,500mとする解説が多いものの、産地ごとの正確な標高帯を裏付ける一次資料は確認できていません。

収穫は10〜12月に行われますが、収穫期間自体は2〜3か月と長く、場所・品種により6〜10回に分けて摘みます。天日でのナチュラル精製に時間がかかるぶん、到着はさらに遅れます。

「モカ」の混用 — 港名・通称・飲み物の名前

イエメンの産地名で一番つまずくのがここです。「モカ」という語には、少なくとも3つの意味が混ざっています。

  1. 港の地名として。イエメン紅海沿岸の港町モカ(アル・ムハー)そのものを指します。国際コーヒー貿易の中心地として台頭した時期は、16世紀とする資料と17世紀中盤とする資料があり、17〜18世紀初頭にはイエメン高地産のコーヒーがこの港を経由して世界に運ばれました。港の名前がそのままコーヒーの通称になったのはこの時期です
  2. イエメン産コーヒー全般を指す歴史的な通称として。20世紀初頭(1911年まで)に輸出市場はモカ港からアデン・ホデイダへ移行し、現在の中心的な卸売市場はモカから北へ約140kmのバイトアルファキーにあります。港そのものはもう物流の中心ではありませんが、通称だけが残りました
  3. 現代の飲み物の名前として。コーヒーとチョコレートを合わせた飲み物を指す商品名としても定着しています

日本の商品名では、この通称が産地・地区名の前に付いた複合語として現れます。「モカハラズ」はハラーズ地区産、「モカマタリ」はバニーマタル(マタリ)地区産を指す語で、「モカ」だけでは産地を特定できません。国内の観測データでも、産地名の「マタリ」(19件・11店)より、通称の「モカ」(40件・10店)のほうが多く商品名に現れています(catalog 2026-09-13時点)。つまり棚の上では、産地名より「モカ」という通称のほうが商品名の骨格になっているということです。

なお2026年8月10日には、内戦下でモカ港がフーシ派に制圧されました。港自体は1955年に整備された小規模港で、コーヒー物流の中心はすでに他港へ移っていますが、名前の由来となった土地をめぐる情勢は現在も流動的です。

精製と品種

精製は乾式(ナチュラル)が基本

イエメンのコーヒーは伝統的にそのほとんどがナチュラル(乾式)精製で、収穫したチェリーを果肉が付いたまま天日で乾燥させます。水資源が乏しく水洗処理に向かないことも、ナチュラルが主流である背景の一つです。精製の過程で生じる果肉(コーヒーチェリーの皮)は「ケシル(qishr)」と呼ばれ、スパイスを加えた飲料として国内市場向けに加工されています。

観測データでは、商品名に精製が書かれている銘柄は少数です。「ナチュラル」が15件・6店、「アナエロビック」(嫌気性発酵)が1件・1店にとどまり、59件中43件は商品名に精製の記載がありません(catalog 2026-09-13時点)。商品名に書かれていない場合も、この産地ではまずナチュラルと考えて差し支えありません。

品種は在来系統名、遺伝解析はまだ途上

イエメンには14種類を超える在来系統の呼び名が報告されていますが、科学者間で一致するのはウダイニ(Udaini)・ダワイリ(Dawairi)・トゥファヒ(Tufahi)・ブライ(Bura’ai)の4系統で、残りは地域固有の呼び名とされます。

品種の遺伝的な実態については、2つの研究が参考になります。World Coffee Research・Istituto di Genomica Applicata・CIRADは2020年、CATIEの648系統とイエメンの88系統を含む736のアクセッションを遺伝解析し、イエメンはエチオピア由来アラビカの二次拡散地でありながら、独自だが限定的な遺伝的多様性を持つと結論づけました。同じ2020年、Qima Coffee・RD2 Visionが148農園を対象にDNAフィンガープリンティングを行ったところ、農家が単に「ウダイニ」と呼んでいるコーヒーの遺伝的内訳はYemenia系統56%・Typica Bourbon系統23%・SL34系統21%に分かれることが分かりました。農家の呼び名と遺伝的な系統は必ずしも一致しないということです。日本の商品名では「イエメニア」という表記がまれに見られますが、これはこの研究で識別された遺伝クラスターに由来する呼び名です。

等級 — 統一された規定は確認できていない

ケニアのスクリーンサイズやエチオピアの欠点数等級のような、国際標準に基づく統一された等級制度は確認できていません。産地名と外観・欠点数・粒サイズを組み合わせた内向けの格付けが中心とされます(未確認)。

日本の商品名には「No.9」「No.8」といった数字付きの等級名や、「アールマッカ」という最上級を示すとされる呼び名が使われますが、これらの基準を定めた公的な規定文書は確認できていません。「マタリ」という産地名そのものが高い評価と結び付けて語られることもありますが、格付けの方法自体は明確でなく、公的な等級規定は未確認のままです。商品名を読むときは、これらの語を公的な等級ではなく店・輸出業者ごとの慣例的な呼び方として見るのが実情に近いといえます。

内戦下の輸出

イエメンでは2015年以降の内戦下で、コーヒーは水資源をめぐり嗜好品カート(qat)との競合にさらされています。カートは農地の15%、利用可能な水資源の約40%を占め、コーヒーと水・土地を奪い合う関係にあります。イエメンの1人あたり年間利用可能水量は世界最低水準の140m³です。

輸出面では、イエメンはICOの非加盟国で、コンテナ(約18t)を満載しにくく、多くが航空輸送に頼らざるを得ません。銀行が紛争地域を高リスクとみなし融資を制限することも、輸出をいっそう難しくしている要因です。コーヒー輸出の相手国は金額ベースでサウジアラビア63%・米国9.84%・日本8.2%・スイス5.79%で、日本は上位に入る輸出先の一つです。一方、全日本コーヒー協会が公表する生豆輸入量の上位国ランキングにはイエメンが挙がっておらず、他の主要生産国と比べると輸入量自体は少ないとみられます。

典型として語られる香味

イエメン産コーヒーの香味として一般に語られるのは、ワインやチョコレートを思わせる複雑な甘さ、土や薬草を思わせる質感、スパイス的な後味です。これは専門メディアの産地解説でくり返し語られる表現であり、個々のロットの評価ではありません。実際の香味は精製・農園・収穫年によって大きく変わります。

国内の棚の実態 — 観測データから

コピチャ観測所が観測する国内の店と楽天市場の出品者のうち、産地がイエメンのコーヒー(ブレンドを除く)は59銘柄・14店でした(2026-09-13時点)。内訳は生豆38、焙煎豆9、その他(焙煎サービス等)12。エチオピアやケニアと比べると扱う店は少なく、生豆卸とロースターの一部に限られる産地です。

見出し語(題名照合) 銘柄 店 生豆 焙煎豆 焙煎豆の中央値 /100g 生豆の中央値 /100g
モカ 40 10 27 4 ¥1,013 ¥349
マタリ 19 11 12 4 ¥1,013 ¥341
バニーマタル 3 3 2 1 ¥825 ¥569
ハラーズ 2 2 2 0 — ¥2,015
ハイマ 1 1 1 0 — —
イスマイリ 1 1 1 0 — —
ナチュラル 15 6 13 1 ¥2,580 ¥1,475
アナエロビック 1 1 1 0 — —

(100g換算は在庫のある行の最安値。中央値は集計対象が少ないときは出していません。語は題名で照合しているので、1銘柄が複数の行に数えられます。いずれの見出し語にも当たらない銘柄が9件あります)

読み取れることが2つあります。

  1. 「モカ」が「マタリ」の2倍以上出現する。40件・10店に対し、産地名「マタリ」は19件・11店。港の名前に由来する通称のほうが、産地名より商品名の骨格になっています
  2. **焙煎豆の中央値は¥1,302(6件)、生豆は¥538(9件)**で、エチオピアやインドネシアと単純比較できるほど件数は多くありません。「ハラーズ」の生豆中央値¥2,015も2件のみの参考値です

生豆は生豆価格ボード、焙煎豆は焙煎豆相場ボードで日ごとの分布が確認できます。ただしイエメンは規格の無い単一農園ロットが多く、生豆価格ボードの店をまたいだ比較には乗りにくい産地でもあります。

買うときの目安

  • 商品名の「モカ〇〇」は港名の通称と地区名の複合語と考える。「モカ」だけでは産地は特定できず、続く地区名(ハラーズ、マタリ、ハイマなど)が実際の産地を示します
  • 精製表記が無ければナチュラルと考えてよい。水資源の乏しさから水洗処理はもともと少なく、商品名に書かれていない場合もこの産地の基本はナチュラルです
  • 「No.9」「アールマッカ」等の等級名は公的な規格ではない。店・輸出業者ごとの慣例的な呼び方として見る
  • 扱う店は限られるので、産地ページの観測した商品から店単位でたどるほうが早い。入荷は内戦下の物流事情もあり不定期で、数量も限られる傾向があります

まとめ — イエメンの選び方3ステップ

  1. 「モカ」と産地名を分けて読む: モカは港の名前・歴史的通称・飲み物の名前の3つに使われる語で、産地そのものはハラーズ・マタリ(バニーマタル)・ハイマなどの地区名で決まる
  2. 精製はナチュラルが基本: 書いていなければ乾式と考えてよい。「アナエロビック」等の発酵系表記があれば別の輪郭
  3. 等級名は目安として読む: 「No.9」「アールマッカ」は公的な等級ではなく慣例的な呼び方。産地名・地区名のほうが手がかりになる

港の名前が産地名の代わりを果たしてきた、という点でイエメンは他のどの生産国とも違う歴史を持っています。「モカ」の正体が地名だと分かると、商品名の読み方が変わります。